最近好きになった、サイコーにロックで音楽が大好きなアイドルがいる。そんな彼がブログで
「自分の人生にキューをつけておいてそこに「戻す」ことが出来たなら幸せなのか?」
という疑問をわたしたちブログ閲覧者になげかけてくれた。
だから、久しぶりにこのブログで、読んでくれるか、分からないしむしろ気付かれない方がそれぽいのではないか、なんて考えるが、書きたくなったので、書く。
まず、わたしは20年間生きてきて、「人生にキューをつけられるのならつけておきたい瞬間」は、パッと思い浮かべるだけで、幾つかある。それは、忘れられないステージだったり、卒業式の晩、クラスメイトとお酒を交わした瞬間だったりする。
実は、わたしには忘れられない「空気感」がある。2017年2月11日、京セラドームであったSEKAI NO OWARIのコンサートだ。わたしのいた客席とステージまでの距離感や会場の空気感は4年経った今でも鮮明に覚えてる。そんな距離感を、わたしは部活で、ちょっと自分が頑張りたいとき、つまりはソロパートや、如何にしてメロディを相手に伝えられるか、というような繊細で雄大なメロディを演奏するときに思い出す。確かにあのステージにいたSEKAI NO OWARIに向かって演奏するのだ。
話を戻す。簡単にその瞬間に戻れるのなら、それは思い出にならないし、ただの旅行と同じになってしまうとわたしは思う。もう戻れないからこそ、それたちは煌めく。戻れないからこそ、戻りたいと思えるのではないか。
本当に忘れられない感情や景色は、ふとしたときに急に感覚的に戻ってくる。それは、VRやキューを戻せたとしても味わえない匂いで、少しだけ今の自分の背中を押してくれる。きっと。
だから、わたしは、2月11日に戻れるよ、と言われても戻らない。身体が覚えてるだけで、頭の片隅にあるだけで幸せ。そりゃ、もう1回生でコンサート見れるよ!って言ってくれるならもちろんイエス!!!と言っちゃうけれども。
戻れないからこそ、わたしたちの人生は儚くて愛おしいものだと思う。だからわたしは、彼の投げかけには、幸せか、幸せじゃない、という答えよりも、「戻れない方が今を愛おしく思えると思う」と答えたい。
#woofer887