矢花さんへの返信ブログになりかけていましたが、これはブログ、つまりは自分の哲学の拓きどころだ、と思いますのでつらつら書こうと思います。
最近常々思うことがあります
「好き」という感情について
人は毎日3万5000回くらいの選択をしながら生きているとよく言われていますが、その選択の根拠は何なのでしょう?
わたしは、その多くは「好き」という感情が根拠になっているのではないか、と思います
例えば自覚のある選択
・今日の晩御飯
・今から聴く音楽
・寝る時間
など、敢えて分かりやすい選択を挙げましたが、
これらは全て「好き」が根拠の選択だと思います
人の生活には「好き」は必要不可欠で、
「好き」を基準に生きているのではないでしょうか
少なくともわたしはそうです
人によって、その「好き」のエネルギーの大きさがバラバラで
だからこそ「好き」のエネルギーが大きすぎる人を見ると
「好き勝手に生きて」「もっとちゃんとしなさい」
みたいな皮肉が生まれてしまうんでしょうね。
かく言うわたしもなかなか「好き」のエネルギーが大きめで過ごしていることを自覚しているのですが、わたしにとってはエネルギーというより、エンジンという解釈の方が違い気がします。(ここまで散々エネルギーと言ってきてなんなんだ)
例えばですが、このブログを定期的に書こう!と久しぶりに思った理由はもちろん矢花さんであり、書こう!というエンジンを生み出したのは他でもなくわたしの「好き」なんですよね。
エネルギーによってエンジンが生まれるのでは?
そう思う人もいると思うし、実際の物理学ではそうだと思います。
ただわたしの解釈ではちょっと違くて、
エネルギーは、「好き」から受け取ったパワーをそのままに日常生活をより活力的なものにすることで、
エンジンは、「好き」から受け取ったパワーをその「好き」の内容に関連するものを自分なりに作り上げていく動力源
というような解釈です。
つまり、矢花さんのブログを読んで、わたしも、わたしなりの文章でブログ更新という名の脳内整理をしているこの状況は、「好き」をエンジンにしているということなんですね。
話が脱線しかけているので元に戻しましょう。
「好き」という感情について、と提起したときに、人間の本能としていちばんに思い浮かぶものは恋愛でしょう。
わたしは恋愛があまり得意ではありません。
「好き」だけで家族にも他人にもなれる恋愛、見えないものが怖い、ということもありますが、諸行無常、心は移り変わるものだと信じているからなのかもしれません。自分が移り変わらない自信がないからこそ、相手の「好き」を信じられないからなのかもしれません。
わたしにとって、今はまだ一方通行の「好き」だけで生きてゆける、というより生きていきたいんだと思います。
周りからどうして恋愛しないの?とか、結婚願望がないことが非人道的だと話をされたりしますが、わたしはまだ相手の好きを受け取るキャパシティが無いんだ、そう思えたことにより、苦しい言葉たちをかわせるようになってきました。
自分は自分らしく、自分だけの「好き」を大切にする。
そんな人生でいたいな、と思います。
そろそろ、今回の哲学を終えましょう。
また次回。